心意識について(内山興正老師をひく)。
内山興正老師『正法眼蔵 弁道話を味わう』(p160-p163)より。
だいたいわれわれの心意識のあり方を,もっと細かくいうと,眼耳鼻舌身のいわゆる五感を前五識という。次に第六意識,第七末那識,第八阿頼耶識,第九菴末羅識。
意識とはいろいろ思うこと。末那識とは,阿頼耶識から出てくるもので,俺が,俺がと思う自意識。阿頼耶識とは個人的生命力と言ったほうが適切でしょう。さきにも述べた心意識という語にあてはめて言うと阿頼耶識が「心(しん)」で,末那識が「意」で,第六意識は「識」です。
前に心意識の話が出てところで,心とは質多(しつた)-(集起の義)で,いろいろ条件がくみあわされてムラムラと起きてくる思いだと申し上げましたが,それは何かというと,たとえば親からの遺伝もあるでしょう。生まれた環境もある。二十世紀の,日本で生まれたという条件もある。また育っていく上での教育,習慣,経験など,さまざまな要素も重なる。さらにはその日その日の天候の加減もあり,身体の調子にも左右される。それらの条件が集まってわれわれの個人的生命力があるわけです。
阿頼耶識とは,この集起のことで,また蔵識ともいう。いろいろなものをとっておく蔵という意味で,われわれはなにか経験すると,それを種子として蓄える。それがまたいつか出てくる。
つまり生きているということは,いろいろなものが集まって起こるという面と,さまざまな経験をしながら学びとって,その経験を用いて現実に行動するという面がある。だから阿頼耶識はだいたいわれわれの個人的生命力といったものです。
この個人的生命力としての阿頼耶識から末那識というものが出てくる。心というものは,いま言ったようにほんとうは偶然の寄せ集めなのだけれども,その偶然の寄せ集めでムラムラと起こる心を,俺だ,俺だと思う。これが,末那識です。
「我智我見我慢我愛とともなり」と唯識にありますが,この末那識が意識という了別の心を生みだす。意識というのは,ただ分別するわけなのだけれども,その分別も単なる分別ではなく,「俺の見方」から了別する。言換えれば「俺の物足りようの思い」で分別する。なんのことはない,心意識とは「物足りよう,物足りよう」の思いで,すべて世の中をみているということです。
これを今日の西洋の心理学にあてばめれば,前五識は,つまり感覚知覚。ふつうわれわれが意識とよんでいるものは「第六意識」,第七末那識は自意識というべきだし,また第八阿頼耶識は無意識,または潜在意識のことですが,仏教の場合はこれらが渾然と一体になって「物足りようの思い」の出所として説明されている。
ここまでは唯識の話ですが,真言宗の場合は,されらにもう一つ,第九菴末羅識というものを立てる。これは,そういうのが総て大自然的な力なのだという見方で,いわば「宇宙とぶっ続きの生命」ということです。
こうしてわれわれはこれだけの能力を持っているわけですが,この能力がすべて成仏した場合に,前五識は成所作智,第六意識は妙観察智,第七末那識は平等性智,第八阿頼耶識は大円鏡智,第九菴末羅識は法界体性智となる。
つまりわれわれの感覚知覚が成仏すれば,所作を成ずる智慧-一切衆生のために働く力としての智慧となる。意識というものは妙観察智-すべてのことに対してよく観じ察するという智慧になる。末那識は俺が俺がという思いが成仏するのだから,まったく平等に物事を見る智慧(平等性智)となる。阿頼耶識が成仏すれば,大きな鏡のように,映るがままという智慧(大円鏡智)にある。最後の菴末羅識が成仏すれば法界体性智-大自然的宇宙そのものの智慧ということです。
そしてこの各々が仏さまにあるのだから,成所作智の仏さまを不空成就如来,妙観察智の仏さまを無量寿如来,平等性智の仏さまを宝生如来,大円鏡智の仏さまを阿閃(門の中:人3つ)如来,法界体性智の仏さまを大日如来という。
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