新年〜2026年。
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ひもトレ…。
ここのところ、首掛け胸巻で日々過ごしている。
そもそもは、テルミンを練習している時にひもかけてみた。なんだか、音の聴こえが違う。集中の仕方が違うらしい。
ということで、日常でもかけて過ごしてみる。
からだ的に楽…なのだが、おもしろいことに、邪念・雑念、もろもろが、浮かびにくいというか、浮かんでもからだ(頭か?)に止まれない感じがする。
そんな感じが面白く、日々過ごしていると、なんだか「前後際断」?!って感じがしてきた。
道元禅師『正法眼蔵 現成公案』
たきぎははひとなる,さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを灰はのち薪はさきと見取すべからず,しるべし薪は薪の法位に住して,さきありのちあり,前後ありといへども,前後際断せり。灰は灰の法位にありて,後あり先あり,かの薪はひとなりぬるのち,さらに薪とならざるがごとく,人のしぬるのちさらに生とならず,しかあるを生の死なるといはざるは,佛法のさだまれるならひなり,このゆゑに不生といふ。死の生ならざる,法輪のさだまれる佛転なり,このゆゑに不滅といふ。生の一時のくらゐなり,死も一時のくらゐなり,たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず,春の夏となるといはぬなり。
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内山興正著『正法眼蔵 坐禅箴を味わう』(176〜178頁)より。
「山河の親切にわが知なくは、一知半解あるべからず」
それで山河とわれと分かれようがないほどの親切は、これを能所なしと知るわが知がなければ一知半解もない。つまり事実われが坐禅して、山河とわれと一枚と覚め覚めてみなければわからないということ。
普通われわれは、我(自心)と世界(万法)とは別々にあるものだと思っている。ところが坐禅という生命実物では自心と万法の二つはない。自心は万法を生命体験する処に生きているのだし、万法は自心に生命体験される処に在る。自心と万法はひとひっくるめで初めて生(なま)のいのちであり生命実物なのだ。これを「心法一如」とも「一心一切法・一切法一心」ともいう。
それに対して西洋哲学ではすべてを主観と客観に分けてしまい、何の疑問ももたずにこの分かれた二つが絶対的にあると前提してしまっている。そして認識というのは、この主観と客観と関係し合う処に初めて成立するものと考えているのだが、それが初めから違うのだ。本当にあるのは生きているナマの実物だけだ。そのなかに主観と客観という両面がないとはいえない。だから分けても結構だ。しかし主観と客観と別個に存在し、その二つが関係し合うことによって認識がおこるというのは全く間違っている。西洋哲学的考え方というのは、その点野蛮だと思う。初めから大雑把に分けてしまうのだから。
西洋医学部の場合でも頭と胴体とまず切ってしまい、頭は頭で研究し、胴体は胴体で研究し、後でくっ付き合わせれば人体のことはわかると考えているから全く危い。一且二つに分けてしまったらもう全体としての生命は通わないからだ。
いま仏教の場合、われと世界と二つにわかれてしまった後に一つだというのではない。二つに分かれる以前のいきいきしたナマの生命実物のなかに、生命体験するわれ(能)と生命体験される世界(所)の親切な二面があるというのです。そしてそういうことを知り得るのはまさにわれの側だから「わが知なくは一知半解あるべからず」だ。私は世界を生命体験しながら生き、世界は私に生命体験されながらあるけれど、そういう事実を直接的に知って生きているのはまさに自心の方だ。
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「何だかうれしく」 東井義雄
「無理をせんといてください」
「無理をしないで休んでいてください」
腰が曲がって
ひどく小さくなってしまった老妻に
何べんも気づかってもらいながら
土手の草を刈る
何だか
うれしく
何だか
しわせで……
「拝まない者も
おがまれている
拝まないときも
拝まれている」
「ここが
み手の
まんなか」
と、
土手の草を刈らせてもらう
何だか
うれしく
何だか
しあわせで……。
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内山興正老師『正法眼蔵 弁道話を味わう』(p160-p163)より。
だいたいわれわれの心意識のあり方を,もっと細かくいうと,眼耳鼻舌身のいわゆる五感を前五識という。次に第六意識,第七末那識,第八阿頼耶識,第九菴末羅識。
意識とはいろいろ思うこと。末那識とは,阿頼耶識から出てくるもので,俺が,俺がと思う自意識。阿頼耶識とは個人的生命力と言ったほうが適切でしょう。さきにも述べた心意識という語にあてはめて言うと阿頼耶識が「心(しん)」で,末那識が「意」で,第六意識は「識」です。
前に心意識の話が出てところで,心とは質多(しつた)-(集起の義)で,いろいろ条件がくみあわされてムラムラと起きてくる思いだと申し上げましたが,それは何かというと,たとえば親からの遺伝もあるでしょう。生まれた環境もある。二十世紀の,日本で生まれたという条件もある。また育っていく上での教育,習慣,経験など,さまざまな要素も重なる。さらにはその日その日の天候の加減もあり,身体の調子にも左右される。それらの条件が集まってわれわれの個人的生命力があるわけです。
阿頼耶識とは,この集起のことで,また蔵識ともいう。いろいろなものをとっておく蔵という意味で,われわれはなにか経験すると,それを種子として蓄える。それがまたいつか出てくる。
つまり生きているということは,いろいろなものが集まって起こるという面と,さまざまな経験をしながら学びとって,その経験を用いて現実に行動するという面がある。だから阿頼耶識はだいたいわれわれの個人的生命力といったものです。
この個人的生命力としての阿頼耶識から末那識というものが出てくる。心というものは,いま言ったようにほんとうは偶然の寄せ集めなのだけれども,その偶然の寄せ集めでムラムラと起こる心を,俺だ,俺だと思う。これが,末那識です。
「我智我見我慢我愛とともなり」と唯識にありますが,この末那識が意識という了別の心を生みだす。意識というのは,ただ分別するわけなのだけれども,その分別も単なる分別ではなく,「俺の見方」から了別する。言換えれば「俺の物足りようの思い」で分別する。なんのことはない,心意識とは「物足りよう,物足りよう」の思いで,すべて世の中をみているということです。
これを今日の西洋の心理学にあてばめれば,前五識は,つまり感覚知覚。ふつうわれわれが意識とよんでいるものは「第六意識」,第七末那識は自意識というべきだし,また第八阿頼耶識は無意識,または潜在意識のことですが,仏教の場合はこれらが渾然と一体になって「物足りようの思い」の出所として説明されている。
ここまでは唯識の話ですが,真言宗の場合は,されらにもう一つ,第九菴末羅識というものを立てる。これは,そういうのが総て大自然的な力なのだという見方で,いわば「宇宙とぶっ続きの生命」ということです。
こうしてわれわれはこれだけの能力を持っているわけですが,この能力がすべて成仏した場合に,前五識は成所作智,第六意識は妙観察智,第七末那識は平等性智,第八阿頼耶識は大円鏡智,第九菴末羅識は法界体性智となる。
つまりわれわれの感覚知覚が成仏すれば,所作を成ずる智慧-一切衆生のために働く力としての智慧となる。意識というものは妙観察智-すべてのことに対してよく観じ察するという智慧になる。末那識は俺が俺がという思いが成仏するのだから,まったく平等に物事を見る智慧(平等性智)となる。阿頼耶識が成仏すれば,大きな鏡のように,映るがままという智慧(大円鏡智)にある。最後の菴末羅識が成仏すれば法界体性智-大自然的宇宙そのものの智慧ということです。
そしてこの各々が仏さまにあるのだから,成所作智の仏さまを不空成就如来,妙観察智の仏さまを無量寿如来,平等性智の仏さまを宝生如来,大円鏡智の仏さまを阿閃(門の中:人3つ)如来,法界体性智の仏さまを大日如来という。
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してみれば四聖諦にしても,「苦のもとは欲望である」,「それゆえ欲望を滅すれば,寂滅の楽が得られる」などといういいかたをすればアヤマリです。
「寂滅の楽を得ようとする,そのことが欲望ではないか」と,かって発したわたしの疑問は,けっしてアヤマッテはいませんでした。寂滅の楽をえんとする欲望がそのまま,かえって修行者をして,抜くべからざるディレンマに追いこむだけですから。
−真実の佛法のおしえは,そんなことではありません。
「欲から苦が生ずる私がある。」
−まず苦,集の二諦は,かくおしえます。これは流転輪廻する自分のすがらのことをいうのです。
しかし同時に「これとまったくちがった自己」があります。それはつぎの滅,道の二諦がおしえる。
「道をあゆむなかには,寂滅している自己がある。」
ということです。
四聖諦はただこの二つの自己の道をならべてみせるだけです。もしこれを聖書のことばを借りていえば,
「肉によりて生まるるものは肉なり。霊によって生まるるものは霊なり。」(ヨハネ三の六)
あるいは
「肉にしたがうものは,肉のことをおもい,霊にしたがうものは,霊のことをおもう。肉の念(おもい)は死なり。霊の念は生命(いのち)なり。平安なり。」(ロマ八の五)
ということです。まことにかかる言葉があればこそ,聖書のなかに,正しき宗教があることを,わたしは信じます。それに反し,もしたとえ佛教者と自称するひとたちといえども,「それゆえ寂滅の楽を得んがため」にと,この二つをつなぎあわせるとき,とたんに功利的な新興宗教とちっともちがわぬものとなってしまうことを,あらためて確認いたします。
真実の佛法は,「本来寂滅の自己なるがゆえに,寂滅の道をあゆむ」のであり,あるいは「寂滅の道をあゆむために,寂滅の道をあゆむ」だけです。つまり真実の自己とは,「思い以上の自己」なるがゆえに,「思い以上の道」をあゆむだけです。そしてこの「思い以上」というのが,坐禅なのです。
だから坐禅してぼつぼつ思いをしずめようとしたとて,じつは坐禅のなかには,しずめるべき何ものもありません。坐禅はただ(祗管)坐禅するだけです。坐禅は,坐禅の独悟現成でのみあります。
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