2024年7月21日 (日)

「何だかうれしく」〜東井義雄。

『東井義雄詩集』探究社、平成元年、199-200頁より。

 

「何だかうれしく」 東井義雄

 

「無理をせんといてください」

「無理をしないで休んでいてください」

腰が曲がって

ひどく小さくなってしまった老妻に

何べんも気づかってもらいながら

土手の草を刈る

 

何だか

うれしく

何だか

しわせで……

「拝まない者も

おがまれている

拝まないときも

拝まれている」

 

「ここが

み手の

まんなか」

と、

土手の草を刈らせてもらう

 

何だか

うれしく

何だか

しあわせで……。

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2024年5月15日 (水)

心意識について(内山興正老師をひく)。

内山興正老師『正法眼蔵 弁道話を味わう』(p160-p163)より。


だいたいわれわれの心意識のあり方を,もっと細かくいうと,眼耳鼻舌身のいわゆる五感を前五識という。次に第六意識,第七末那識,第八阿頼耶識,第九菴末羅識。

 意識とはいろいろ思うこと。末那識とは,阿頼耶識から出てくるもので,俺が,俺がと思う自意識。阿頼耶識とは個人的生命力と言ったほうが適切でしょう。さきにも述べた心意識という語にあてはめて言うと阿頼耶識が「心(しん)」で,末那識が「意」で,第六意識は「識」です。

 前に心意識の話が出てところで,心とは質多(しつた)-(集起の義)で,いろいろ条件がくみあわされてムラムラと起きてくる思いだと申し上げましたが,それは何かというと,たとえば親からの遺伝もあるでしょう。生まれた環境もある。二十世紀の,日本で生まれたという条件もある。また育っていく上での教育,習慣,経験など,さまざまな要素も重なる。さらにはその日その日の天候の加減もあり,身体の調子にも左右される。それらの条件が集まってわれわれの個人的生命力があるわけです。

 阿頼耶識とは,この集起のことで,また蔵識ともいう。いろいろなものをとっておく蔵という意味で,われわれはなにか経験すると,それを種子として蓄える。それがまたいつか出てくる。

 つまり生きているということは,いろいろなものが集まって起こるという面と,さまざまな経験をしながら学びとって,その経験を用いて現実に行動するという面がある。だから阿頼耶識はだいたいわれわれの個人的生命力といったものです。

 この個人的生命力としての阿頼耶識から末那識というものが出てくる。心というものは,いま言ったようにほんとうは偶然の寄せ集めなのだけれども,その偶然の寄せ集めでムラムラと起こる心を,俺だ,俺だと思う。これが,末那識です。

 「我智我見我慢我愛とともなり」と唯識にありますが,この末那識が意識という了別の心を生みだす。意識というのは,ただ分別するわけなのだけれども,その分別も単なる分別ではなく,「俺の見方」から了別する。言換えれば「俺の物足りようの思い」で分別する。なんのことはない,心意識とは「物足りよう,物足りよう」の思いで,すべて世の中をみているということです。

 これを今日の西洋の心理学にあてばめれば,前五識は,つまり感覚知覚。ふつうわれわれが意識とよんでいるものは「第六意識」,第七末那識は自意識というべきだし,また第八阿頼耶識は無意識,または潜在意識のことですが,仏教の場合はこれらが渾然と一体になって「物足りようの思い」の出所として説明されている。

 ここまでは唯識の話ですが,真言宗の場合は,されらにもう一つ,第九菴末羅識というものを立てる。これは,そういうのが総て大自然的な力なのだという見方で,いわば「宇宙とぶっ続きの生命」ということです。

 こうしてわれわれはこれだけの能力を持っているわけですが,この能力がすべて成仏した場合に,前五識は成所作智,第六意識は妙観察智,第七末那識は平等性智,第八阿頼耶識は大円鏡智,第九菴末羅識は法界体性智となる。

 つまりわれわれの感覚知覚が成仏すれば,所作を成ずる智慧-一切衆生のために働く力としての智慧となる。意識というものは妙観察智-すべてのことに対してよく観じ察するという智慧になる。末那識は俺が俺がという思いが成仏するのだから,まったく平等に物事を見る智慧(平等性智)となる。阿頼耶識が成仏すれば,大きな鏡のように,映るがままという智慧(大円鏡智)にある。最後の菴末羅識が成仏すれば法界体性智-大自然的宇宙そのものの智慧ということです。

 そしてこの各々が仏さまにあるのだから,成所作智の仏さまを不空成就如来,妙観察智の仏さまを無量寿如来,平等性智の仏さまを宝生如来,大円鏡智の仏さまを阿閃(門の中:人3つ)如来,法界体性智の仏さまを大日如来という。

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2024年4月24日 (水)

「行」の言葉ー「してみれば四聖諦にしても、『苦のもとは欲望である』、『それゆえ欲望を滅すれば、寂滅の楽が得られる』などといういいかたをすればアヤマリです。」〜内山興正。

してみれば四聖諦にしても,「苦のもとは欲望である」,「それゆえ欲望を滅すれば,寂滅の楽が得られる」などといういいかたをすればアヤマリです。
 「寂滅の楽を得ようとする,そのことが欲望ではないか」と,かって発したわたしの疑問は,けっしてアヤマッテはいませんでした。寂滅の楽をえんとする欲望がそのまま,かえって修行者をして,抜くべからざるディレンマに追いこむだけですから。
−真実の佛法のおしえは,そんなことではありません。
 「欲から苦が生ずる私がある。」
−まず苦,集の二諦は,かくおしえます。これは流転輪廻する自分のすがらのことをいうのです。
 しかし同時に「これとまったくちがった自己」があります。それはつぎの滅,道の二諦がおしえる。
 「道をあゆむなかには,寂滅している自己がある。」
ということです。
 四聖諦はただこの二つの自己の道をならべてみせるだけです。もしこれを聖書のことばを借りていえば,
 「肉によりて生まるるものは肉なり。霊によって生まるるものは霊なり。」(ヨハネ三の六)
あるいは
 「肉にしたがうものは,肉のことをおもい,霊にしたがうものは,霊のことをおもう。肉の念(おもい)は死なり。霊の念は生命(いのち)なり。平安なり。」(ロマ八の五)
ということです。まことにかかる言葉があればこそ,聖書のなかに,正しき宗教があることを,わたしは信じます。それに反し,もしたとえ佛教者と自称するひとたちといえども,「それゆえ寂滅の楽を得んがため」にと,この二つをつなぎあわせるとき,とたんに功利的な新興宗教とちっともちがわぬものとなってしまうことを,あらためて確認いたします。
 真実の佛法は,「本来寂滅の自己なるがゆえに,寂滅の道をあゆむ」のであり,あるいは「寂滅の道をあゆむために,寂滅の道をあゆむ」だけです。つまり真実の自己とは,「思い以上の自己」なるがゆえに,「思い以上の道」をあゆむだけです。そしてこの「思い以上」というのが,坐禅なのです。
 だから坐禅してぼつぼつ思いをしずめようとしたとて,じつは坐禅のなかには,しずめるべき何ものもありません。坐禅はただ(祗管)坐禅するだけです。坐禅は,坐禅の独悟現成でのみあります。

*内山興正老師語録はこちら…

(『自己-宗派でない宗教』p246-249)

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2024年2月28日 (水)

「移ろうと」〜内山興正。

移(うつ)ろうと 思うところも 明日はなき

今日はしきりに 花の散り布(し)く

                 興 正(内山興正老師)

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2024年2月 5日 (月)

「異角異見〜新しい生命時代のために」〜内山興正。

内山興正老師「異角異見〜新しい生命時代のために」『総合教育技術』(小学館)より。
▼1984年4月号
生命の底光りする一つの人間像
「よいよい生活」への願望は、それ自身一つの生命力なのですから、けっして否定すべきではありませんが、まさにそれがただ「物質的なものだけへの渇望であることが問題なのです。
▼ 1984年5月号
相手は生命である
われわれがいかに力をつくし、教育したつもりになっても、本当に成長するのは、教師の思議による技術ではなく、子どもの生命力そのものなのだということは、絶対見失ってはならぬことであり、同時に教師たるもの、いよいよこの生命の前に怖れ畏むところがなければならぬのだと思うのです。
▼1984年6月号
(-α)×(-1)=(+α)
大体いまの数学の先生方は(数学にかぎらず他の科目の先生方も)、大概ご自分が学生時代からその科目が好きで、その科目がよくでき、それでその科目の先生になった方多いのでないでしょうか。そういう先生方は、その科目を苦手とする生徒の「分からないところ」が「お分かりにならない」のです。
▼1984年7月号
選別と教育
本当に若くして受験に失敗し、絶望を経験しつつ、そこに鍛えられた人間こそが、却って将来逞しく大きく立ち上がり、働く人間になるのかもしれないのです。−−落ちこぼれのこどもに対し、そのまま「おれは駄目なんだ」と一生にわたって落ちこぼれさせてしまうようでは、教師自身こそが失格だとせねばならぬでしょう。
▼1984年8月号
教育する心
いま大切なことは、小人や擬似(えせ)オトナを教育して「ほんとうの大人」とする、「人類の中身の向上」です。それを推進できるのは、ただ、人間の「ほんとうの教育」以外にはないのではないでしょうか。
▼1984年9月号
わが生命分身と出逢う
教育とは、その子どものこれからの一生において、少しでもその生きる内容を豊かにしてやりたいといいう「親心からの教育」でなければいけないと思う。
▼1984年10月号
なんのための勉強か?
ばらが大人に生長すればバラの花が咲きます。教育もそれぞれの人生において、それぞれの花を咲かせるということに価値をおくべきだ。
▼1984年11月号
大切なことは勝つことか、仲よくか
競争社会に勝ちぬくだけを生活原理とする社会、そしてそのための教育をしているかぎり、人類の行き先は開かれないように思う。
▼1984年12月号
大人の心
教育の根本目標は、現代という「小人野蛮時代」を「ほんとうの大人時代」にまで成長させていくことだと思う。
▼1985年1月号
「やる気」の問題−−生命の深さ
今、「やる気」がない、無気力な子供たちに本当のやる気を起こさせるにはどうしたらよいだろうか。
▼1985年2月号
自己の生命力に目を開く
学校で宗教を教えてはならぬということにより、この人間として最も大切な生命さえも見失ってしまったところに、今日の学校教育の根本欠陥があるのではないだろうか。
▼1985年3月号
もう少し心ゆたかな教育を
「心ゆたかに」そして「ゆたかな人生」を送ることこそが、人間の幸福ではないだろうか−−そのために学校教育は何をすべきか。

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2024年1月 6日 (土)

「生きてるだけで丸儲け」〜明石家さんま。

「生きてるだけで丸儲け」

 

明石家さんまさんのこの言葉が、

内山興正老師に繋がっているとは、知らなかった…。

 

NHK Eテレ『スイッチインタビュー』

「明石家さんま×森保一」EP1(初回放送日: 2024年1月5日、再放送予定: 1月10日(水)午前0:25)

https://www.nhk.jp/p/switch-int/ts/K7Y4X59JG7/episode/te/DJ8R4183W7/

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新年〜甲辰。


新年は一炷の坐禅から始まる。

久しぶりに坐る。


昨秋、本格的なテルミンを買って、
練習の質が変わってきたせいか、
ひさびさの坐禅に違いを感じる…。

そのあと、お節。
おせちは例年通りだけれど、
お雑煮は、特別。

お雑煮は、への字農法を実践研究している
知人からいただいたもち米を
新しく買った小さな餅つき機でついたお餅で。


2日には、初稽古。

夕方口琴して、夜テルミン。

昨年末から、極めてゆっくり演奏することで、やっと、
からだの動きを感じてからだの働きを観ていくこと…
にフックがかかり始める。

ほぼほぼ立禅、あるいは武術の站椿。

おもしろい…。

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2023年8月12日 (土)

「われわれが生命という場合、抽象的な生命概念であってはならない。具体的に「いまここの働き」を働くのでなければならない。」〜内山興正。

「私の働き場処に生命がゆきわたるー知事の心づかい」『【改訂版】いのちの働きー知事清規を味わう』内山興正著(大法輪閣)

(33-36頁)

前に仏法とは、結局「生命が生命として働く」ことだといったけど、いま叢林で知事として大切なのは、一つの配役のなかで本当に生命のある仕事をすることです。なぜならばその生命というものを突きつめれば、いまここのあり方を抜きにしては何もないからです。だとえば西洋の哲学者が「生命」ということを論ずるのなら、これはもう抽象論なんだ。ヘーゲルは「存在と思惟の一致」という。事実、ヘーゲルの哲学はそこから始まるわけだが、しかしそれは、「存在と思惟の一致」ということを考えているだけなのです。もし本当に存在と思惟が一致しているのなら、例えば「火」ということを考えたら、とたんに頭がやけどしなくてはならない。ところがそれを考えてもやけどしないところをみると、結局は一致していないわけだ。

 

今仏法としては、そういう抽象概念ではない。「生命」という限りは口ではいえない。本当の生命とは、いま俺の生きている事実をいっているので、決して「生命」という言葉ですませてよいものではない。生命とはまったく現ナマとして生きていることで、いくら冷蔵庫に入れておいても保存はきかない。だから一瞬先に起こったことは、ここではもう通用しない。生命の実物は保存のきかない現ナマとして、いつでもいまここのあり方として生きている。

 

(中略)

 

つまりわれわれが生命という場合、抽象的な生命概念であってはならない。具体的に「いまここの働き」を働くのでなければならない。それがいまわれわれの叢林にあっては配役です。典座は典座という配役において、園頭は園頭という配役において、具体的な自己の生命を働かなくてはならない。「オレはオレの生命を生きるんだ」といっても、何もしないのなら、それはちっとも生命を生きていることにならない。大切なのは、いつでもこの具体的働きなんだ。

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2023年7月 9日 (日)

「本當の眞理は本の中などにはありません。眞理はその動きの方に、その生活態度にあるのです。」〜澤木興道。

澤木興道述、稲垣秀雄編『生活即禅』昭和15年、山喜房佛書林。

 

(8-9頁)

劍術にせよ、柔術にせよ、昔は實用向きであつたかも知れん。生命を保護するためのものだつたかも知れんが、今日は人格を鍛錬さすためのものです。實用にした時代でも『飛び道具は卑怯である、名を名乗れ』といふ工合にして勝負をして、決して卑怯なことをしてゐない。

武術は人格向上のためのものです。武道は人格を涵養して、日本人を拵へるものである。人格を養う道も色々あるが、本當の人格を作るのが武道である。自己本來の面目を打ち出して來るのが劍道である。柔道の扱心流目録に『静意の巻』といふのがある。それに書いてあります『武道は柔道にせよ、劍道にせよ、心を取扱ふものだ、誰の心を取扱ふかと云へば、自分の心を取扱うのだ。どう取扱ふかと云つたら、眞理に到達するまで、宇宙の眞理と波長が合ふまで取り扱へ』と云ふ意味の事がある。眞理は本の中にあるものだと思つてゐる連中があつて、本許り見て青瓢箪になつて居ります。本當の眞理は本の中などにはありません。眞理はその動きの方に、その生活態度にあるのです。

 

(41頁)

武道は、敵を方便として前において假に負け勝ちを論じ、精一杯の力を出して眞の自己の、今の、こゝの、はたらきを鍛錬し創造するものである。

 

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2023年3月18日 (土)

櫛谷宗則さん編集の『共に育つ』第19号が発行されました。

C2954fae2c2c4c2090fd0228a4e65314 内山興正老師のお弟子さんで老師の著作の編集もされている櫛谷宗則さんが2年に一度発行されている『共に育つ』の第19号が発行されました。

申し込みは,下記の住所におハガキで櫛谷宗則さんまで。
折り返し,冊子と振替用紙が届きますので,冊子代500円と送料を振り込んで下さい。

〒959-1835 新潟県五泉市今泉1331
櫛谷宗則 宛

 

共に育つ 第19号 〜目次〜

若き日の思索 ……… 内山興正 2

絶望の光の彼方 ……… 須賀智哉 15

《パラダイス》作ってます ……… 長山雅世 24

匝地漫天 ……… 櫛谷みゆき 30

あるとないのあいだ ……… 加嶋牧史 35

鬼娘介護日記 ……… 生田栄子 44

老いの現実を生きる ……… 大薮利男 53

独居老人 つぶやく ……… 佐藤信光 57

出会うところに「わたし」を問い続ける ……… 曽余田順子 63

お念仏に育てられ ……… 松本曜一 70

念仏せんとや生まれけん ……… 荒木半次 75

自由であることの可能性 ……… 虫賀宗博 81

とんぼ返り ……… 北村雅美 87

坐禅からよむ現成公案(一) ……… 櫛谷宗則 93

編集後記 ……… 100

 

◯編集後記◯

田んぼ道の散歩でも、白鳥に出逢わなくなりました。みなシベリアへ帰ったのでしょう。フキノトウが顔を出し、大地もゆっくり動き始め、人間のあらゆる現実を呑み込んで、時は静かに過ぎていきます。

二年間のご無沙汰でしたが、皆様いかがお過ごしでしたでしょうか。

人は誰でも生きる困難に出逢います。しかしそれを超えていく力が、何ものにも汚されない力が、一人ひとりに授けられています。それを今号すべての文から感じました。これらの文は、何度も自身に問いかけ、また問いかけて生まれた文です。地に倒れながら、盛り返し盛り返して、地によって生きた、いのちの息吹です。祈りです。

祈りとは何かのためとか、何かを願うことではなく、この私の一日一日がただ思いの息()んだ光のなかに生かされていたこと。思いは息まないまま、ただ息んだ世界に透徹されていることです。偉い話でもなく、快挙やイイ話でもない、今ここ誰でもがしている一息一息が、これ以上ない快挙である−−何ともない深いよさ、そこからの言葉です。

この本を手に取って頂いたご縁を大切に深くし、すべてに目を通して頂けましたら嬉しいです。皆様、どうぞお元気で!

(櫛谷宗則)

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