姿勢(1)。
見様見真似で、せっせとテルミンを練習している。
テルミンは、垂直方向と水平方向に伸びたアンテナの周囲に形成された微弱な電磁場のなかで、手をアンテナに近づけたり遠ざけたりすることで音の高さや大きさを制御する古典的な電子楽器。
ピアノやギターなど、ここをこうしたらこの音がこう出る!という基準が楽器に存在しないのが魅力。テルミンを演奏は、視覚による思考、つまりものを固定的に捉えて考える(という自分の思考の癖)ということとは、違うモードを要求されることに気づいて、すっかりハマってしまって、今・ここ。
それで、姿勢についても、気づきあり。
姿勢とは、単に、背骨や筋肉やが、その人の置かれた状況・環境とはかかわりなくある(正す)ものではなく、状況・環境とのかかわりが、よく繋がっていくような身心の環境との主体的(能動的)な関わりのありようを姿勢というのだな…。
という感じ。
内山老師は、『宗教としての道元禅―普勧坐禅儀意解 』(1977年)[復刻版:『普勧坐禅儀を読む―宗教としての道元禅』(2005年)]で、
思量箇不思量底:そうして思いの手放しである坐禅の姿勢(不思量底)を、ただ骨組と筋肉をもって生き生きとネラッテいる(思量する)ことが、正しい坐禅というものである。
と言われた。
そうだ、そうだ。
筋肉と骨格で、正しい坐禅の形をねらっていくんじゃないんだ。
身心の環境との主体的(能動的)な関わりを事実やっていくということが、「生き生きとネラッテ」いくということだ。坐っている周囲・環境を切り離したはなしではない。
師匠の宮浦老師は、「ぶっつづき」ということを言われた。坐禅をして何がどうなるのでもないが、「"ぶっつづき"ということが,だんだんとはっきりしてくるんだよ」と言われた。
正しい坐禅の形をねっていくんじゃない、「ぶっつづき」ということは、知っていたし分かっていたつもり…でも、それは頭でね、ということに、けっこうはっきり気づく。
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