新年〜2026年。
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ひもトレ…。
ここのところ、首掛け胸巻で日々過ごしている。
そもそもは、テルミンを練習している時にひもかけてみた。なんだか、音の聴こえが違う。集中の仕方が違うらしい。
ということで、日常でもかけて過ごしてみる。
からだ的に楽…なのだが、おもしろいことに、邪念・雑念、もろもろが、浮かびにくいというか、浮かんでもからだ(頭か?)に止まれない感じがする。
そんな感じが面白く、日々過ごしていると、なんだか「前後際断」?!って感じがしてきた。
道元禅師『正法眼蔵 現成公案』
たきぎははひとなる,さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを灰はのち薪はさきと見取すべからず,しるべし薪は薪の法位に住して,さきありのちあり,前後ありといへども,前後際断せり。灰は灰の法位にありて,後あり先あり,かの薪はひとなりぬるのち,さらに薪とならざるがごとく,人のしぬるのちさらに生とならず,しかあるを生の死なるといはざるは,佛法のさだまれるならひなり,このゆゑに不生といふ。死の生ならざる,法輪のさだまれる佛転なり,このゆゑに不滅といふ。生の一時のくらゐなり,死も一時のくらゐなり,たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず,春の夏となるといはぬなり。
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4月に買ったテルミンpremium。その上、実は本格的なテルミンも購入したのだけれど、初期不良につき、販売元に送り返し…(泣)。
不遇は、テルミンばかりでなく…先日は、かったばかりの折り畳み傘を取り落として、パーツが割れて壊れるし…(泣)。
なんてついてないんだ〜_| ̄|○
と、がっかくりしながら歩いていたら、
「感謝だな」
という思いがうかんだ。
ちょっと、びっくりした。
けれど、それがおもしろいことに、思いがうかんだとはいったが、なんてついてないんだ、はあ〜と頭が下をむいた感じと同時に、これは「感謝だな」と思えた、と言ったほうが正確だ。
…からだが生む言葉。
ということに気づいたからといって、あいかわらず、自分をとりまく嫌な状況はやっぱり嫌。すっかりトラウマ状態のものもあるし…といいつつ、嫌なことを実体化して握りしめているのもわかるので、すこし握ったてのひらを開いてみると、実態の希薄な不安・不満ばかりで気分悪い。
そんななか、1年前に読んだ、教育者で浄土真宗・東光寺の住職でもあった東井義雄先生が紹介され序文も書かれていた鈴木章子著『癌告知のあとでー私の如是我聞』(探究社)の話が思い起こされた。
この話は、東井先生の『仏の声を聞く』(探究社)の中で語られていて、それを思い出したのだが、東井先生は、鈴木章子さんの次の詩を紹介していた。
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こういう感謝は、自分にはないな…。
それから、ふっと、ぶつぶつ不満たらたらな周りを見渡してみると、例えば、嫌で嫌で、くそ腹たつことだって、そのことの苦情を受けて、いろんなことを考えて対応してくれる人たがいるじゃないか…ということが見えて来る。そういう人たちは、それが仕事だから当たり前、じゃあない。やって当たり前かどうかじゃなくて、仕事としてやっている、そこに生身の汗かくその人がいるじゃないか…という姿に、うっすら気づく。
は、自分の姿勢のなかに聴こえてくるのだろうな。
見様見真似で、せっせとテルミンを練習している。
テルミンは、垂直方向と水平方向に伸びたアンテナの周囲に形成された微弱な電磁場のなかで、手をアンテナに近づけたり遠ざけたりすることで音の高さや大きさを制御する古典的な電子楽器。
ピアノやギターなど、ここをこうしたらこの音がこう出る!という基準が楽器に存在しないのが魅力。テルミンを演奏は、視覚による思考、つまりものを固定的に捉えて考える(という自分の思考の癖)ということとは、違うモードを要求されることに気づいて、すっかりハマってしまって、今・ここ。
それで、姿勢についても、気づきあり。
姿勢とは、単に、背骨や筋肉やが、その人の置かれた状況・環境とはかかわりなくある(正す)ものではなく、状況・環境とのかかわりが、よく繋がっていくような身心の環境との主体的(能動的)な関わりのありようを姿勢というのだな…。
という感じ。
内山老師は、『宗教としての道元禅―普勧坐禅儀意解 』(1977年)[復刻版:『普勧坐禅儀を読む―宗教としての道元禅』(2005年)]で、
思量箇不思量底:そうして思いの手放しである坐禅の姿勢(不思量底)を、ただ骨組と筋肉をもって生き生きとネラッテいる(思量する)ことが、正しい坐禅というものである。
と言われた。
そうだ、そうだ。
筋肉と骨格で、正しい坐禅の形をねらっていくんじゃないんだ。
身心の環境との主体的(能動的)な関わりを事実やっていくということが、「生き生きとネラッテ」いくということだ。坐っている周囲・環境を切り離したはなしではない。
師匠の宮浦老師は、「ぶっつづき」ということを言われた。坐禅をして何がどうなるのでもないが、「"ぶっつづき"ということが,だんだんとはっきりしてくるんだよ」と言われた。
正しい坐禅の形をねっていくんじゃない、「ぶっつづき」ということは、知っていたし分かっていたつもり…でも、それは頭でね、ということに、けっこうはっきり気づく。
2007年に買ってすぐ飽きて…
ほったらかしていた学研・大人の科学のテルミンmini(赤いのです)。
YouTube見ててふと思い出し、
昨日電池を買ってきていじってみた。
おもしろ…なんか、いい…。
もちょっとやりやすいのが欲しい…。
という衝動に駆られて、
学研・大人の科学のテルミンpremiumを購入。
とうの昔に製造終了だったので、
未開封の中古品。
さすが、赤いテルミンminiより本格的である。
さっそく、見様見真似で練習。
おや?…
練習の前後で、からだの感じが違う。
ここを押したら、この音が出る、という楽器ではないので、
音を奏でるときの集注感が、なんだか新鮮。
視覚メインの集中と固まった肩甲骨が解除されるような感じ。
と、同時に、あれやこれやで、
いらいら、とげとげした自分の内がすっきり、整った感じ…。
俗に言う、心が落ち着くといったところか…。
ただこれは、いわゆる、心理的安定とは違う。
どうも、いつもは、実際にものを見る・見ないは別にして、
視覚中心でものごとを考えている…
というか、環境への注意の向けかた方が視覚優位なのだろう、
そういう偏りのある思考の癖=心の偏り方が、
ちょっと変わるといった感じ。
と思うと、たぶん、坐禅の時も、
こういう心の偏りのまま坐ってるんだろうな。
心が据わるというのは、偏りを越えていくことなのだろう。
そうそう、『典座教訓』の「大心」に出てきたな…
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先日、通りを歩いていたら、タバコを吸っている人がいた。
その人と距離はあったが、風に乗ってタバコの臭いがこっちまでくる。
タバコの煙は、好きじゃない。避けて通とうろうと思ったが、すれ違う一瞬のことだし…と思い、その人を視界に入れながら、そのまま近い距離ですれ違う。
あれっ……?!
すれ違いざまに、その人のたばこを吸い込んで吐き出す気持ちのよさのようなものが、感じられた。
これは、この感じは、なんだろう?
『有時』の「展開」ということと今年の自分のコンセプトの「勢い」ということが、自分の中で重なる…。
この感じ(方向感覚)は、大事かもしれない。
「尽地に万象百艸あり、一艸一象おのおの尽地にあることを参学すべし」
参学への引っ掛かり。
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内山興正著『正法眼蔵ー有時・諸悪莫作を味わう』柏樹社、昭和59年。
(33-35頁)
「恁麼の道理なるゆゑに、尽地に万象百艸あり、一艸一象おのおの尽地にあることを参学すべし。かくのごとくの往来は。修行の発足なり。到恁麼の田地のとき、すなわち一艸一象なり、会象不会象なり、会艸不会艸なり」
「恁麼の道理」----このような道理だから、尽地に万象百艸(草)があり、一草一象が尽地にあることを学びなさいという。万象百草とは形のあるあらゆるものという意味です。尽地について詮慧禅師の「御聴書抄」には、「この尽地は自にあたる。自己の上に万象をあらわすに似たり。是什麼物恁麼来の尽地なり」とある。つまりあらゆるものは自己の生命実物の地盤にあるということです。われわれがどんなものを見ようと、どんな世界を体験しようと、それらはみな、この自己の生命実物地盤にある。だからあらゆるものは自己の生命の内容なのだ。その一草もその一象も、この私の生命の展開の尽地でないものはないということです。
そしてかくのごとくの往来、一切を自己の生命の内容としてみるという生きかた、仏道修行の発足だという。もっと解りやすくいえば、私がいつもいう「出逢うところわが生命」です。みんな自分の生命の分身なのですね。たとえば私のところへ客がきて、いろいろな煩悩を打ち明ける。その時、それは実は他人事ではなく、すべて私の生命の問題なのだ。あるいは運転手が自動車を運転するために、ハンドルを握ったとき、その運転手にとってハンドルそのものが、わが生命そのものだという生きかた、それが仏道修行だという。
そして「到恁麼の田地のとき、すなわち一艸一象なり」----つまり修行によって行きつくところも一草一象がそのまま一草一象だということ。いま典座がご飯を炊くときは、まっすぐ飯炊きになることである。
(略)
「会象不会象なり、会艸不会艸なり」とは妙な言葉ですが、会とは理解すること、つまりこういうことは理解しようと、しまいと、結局は一切が自己の生命の内容だから同じことだということ。面山禅師の聞解の註釈には「会するも不会するもの心の有時なり」とある。また蔵海禅師の私記には「あにただ会不会のみにかぎらんや、迷象不迷象なり」「悟草不悟草なり」とある。つまり迷といい、悟といっても別物ではない。ただ自己の生命の風景にすぎない。
いつもいうように、仏法の話は、迷いを捨てて悟りにつくというような話ではない。迷いも悟りも、凡も聖も。会も不会もすべて自己の生命の風景だから、そういう自己の生命の内容として一目で見る。そういう自己の生命の実物地盤に立ち帰った処から、まっさらに見直すということです。
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「刻々が刻々の世界を展開する」
そう。そうなんだな。
刻々が刻々の世界を「展開する」んだ。
ということにハッとして、
これまで、自分は、「刻々」を止めて捉えようとしてきた…
自分にとって「見る」とは、暗黙理に「止めること」「留めること」「固定すること」と同義だった…
ということに気づいて内山興正老師の『有時』を開いて見ると、ちゃんとそう書いてあるではないか。
この『有時』の一番最初には、「肝腎なことはこの『有時』巻に書かれてあることが、一体この自分にとってどういうことなのか−−−−これをまずはっきりさせることだけが大切なので、この的(まと)を外して「思想的に深淵」とおうが、あるいは「思想思弁の話ではない」といおうが、仏法としては全く無意味です。」(15頁)とある。
「一体この自分にとってどういうことなのか」、やっと一歩そこに寄ってきたというところ。
だったらうれしい。
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内山興正著『正法眼蔵ー有時・諸悪莫作を味わう』柏樹社、昭和59年。
(20-22頁)
「古仏言、有時高高峰頂立。有時深深海底行。有時三頭八臂。有時丈六八尺。有時挂杖払子。有時露柱灯籠。有時張三李四、有時大地虚空」
「有時高高峰頂立、有時深深海底行」−−−−通常なら「ある時は高々たる峰頂に立ち、ある時は深深たる海底を行く」というふうに読みたいところです。またそのほうが解りやすい気がするのですが、それだと「ある時は」「ある時は」と連続するじゃないですか。ところがこの「有時」の巻で道元禅師がいわれるところはそうではない。「有時は高々たる峰頂立」と、ここでポツンと切れる。「有時は深々たる海底行」とまたポツンと切れる。
有時というのは、時々刻々だ。そしてその刻々の截断したときがそれぞれ高々たる峰頂立を展開し、また深深たる海底行を展開する。刻々が尽有尽界を展開する。それが有時です。
「有時は三頭八臂」−−−−三頭八臂とは頭が三つ、臂が八本、つまり阿修羅の姿。早い話が田中角栄さんあたりの姿はこれじゃないかと思う。あっちもこっちも頭も手も出している奇怪な姿だ。これも時(じ)の展開する有(う)だ。
「有時丈六八尺」−−−−丈六八尺とは、仏さんは立つと一丈六尺、坐ると八尺だという。つまりこれは仏さんの姿ですが、これも時の展開する有だ。
「有時挂杖払子」−−−−挂杖(ちゅうじょう)・払子(ほっす)は坊さんの持物。昔の中国の山野を歩くには虎や狼などの猛獣から身を守るために、いまお祭りのときの天狗さんがついて出てくるような天辺に金具の輪をいくつかつけた杖を持って歩いた。チャリン、チャリンと鳴らしながら歩けば猛獣たちもさては人間がやってきたなというわけで、あらかじめ避けてくれる。人間という動物はやっぱり昔から一番危険な存在なのだ。払子は馬や牛が尻尾でハエやアブを追っ払うあれと同じです。昔は坊さんもあの毛のついたやつで、ハエや蚊を追っ払ったわけだ。この挂杖払子も時の展開する有だ。
「有時は露柱灯籠」−−−−露柱はお寺の本堂にある裸の丸柱のこと。灯籠もお寺の仏壇両側にある。これも時の展開する有だ。
「有時は張三李四」−−−−張三李四とは、張家の三男、李家の四男といった意味。中国では長子相続が習慣だから、三男、四男はどうでもいい存在、言い換えれば庶民階級ということ。この張三李四も時の展開する有だ。
「有時は大地虚空」−−−−大地虚空とはこの宇宙。この大地虚空も刻々、いま展開している尽有尽界なのである。
「いわゆる有時は、時すでに有なり、有はみな時なり。丈六八尺これ時なり時なるがゆゑに、時の荘厳光明あり、いまの十二時に、一如なるべし。十二の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ」
「いわゆる有時」とは時々の時が尽有尽界を展開しているのであり、いろいろな尽有尽界はみな時々截断した時の風景であるということです。だから丈六八尺、仏さんの姿も、これ時だ。荘厳光明の仏さんの様相も時であるが故に「時の荘厳光明あり」という。結局は刻々の経歴で、刻々に截断している。それはわれわれが普通に生きて住んでいる二十四時間(昔は十二時)と同じで、まさに刻々である。
三頭八臂の奇怪な阿修羅の姿、これもやはり時だ。時なるがゆえにいまの十二時と一如なるべしで、ちゃんと刻々なのだ。田中元首相でも、時には怒って赤くなったり、ギクっとして青くなったりしているに違いない。そんな様相も、つまりはこれは時なりだ。その時の長、遠、短、促(つまっている意)とはどういるものかを、われわれは計って(度量)はみないけれども、常に刻々と動いている。一秒の何億分の一ずつでも、ちゃんと一瞬の休みもなく、かつ前と後とまったく截断して刻刻と動いている。止まるということは決してない。そういうものを我々は十二時という。
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