2024年5月15日 (水)

心意識について(内山興正老師をひく)。

内山興正老師『正法眼蔵 弁道話を味わう』(p160-p163)より。


だいたいわれわれの心意識のあり方を,もっと細かくいうと,眼耳鼻舌身のいわゆる五感を前五識という。次に第六意識,第七末那識,第八阿頼耶識,第九菴末羅識。

 意識とはいろいろ思うこと。末那識とは,阿頼耶識から出てくるもので,俺が,俺がと思う自意識。阿頼耶識とは個人的生命力と言ったほうが適切でしょう。さきにも述べた心意識という語にあてはめて言うと阿頼耶識が「心(しん)」で,末那識が「意」で,第六意識は「識」です。

 前に心意識の話が出てところで,心とは質多(しつた)-(集起の義)で,いろいろ条件がくみあわされてムラムラと起きてくる思いだと申し上げましたが,それは何かというと,たとえば親からの遺伝もあるでしょう。生まれた環境もある。二十世紀の,日本で生まれたという条件もある。また育っていく上での教育,習慣,経験など,さまざまな要素も重なる。さらにはその日その日の天候の加減もあり,身体の調子にも左右される。それらの条件が集まってわれわれの個人的生命力があるわけです。

 阿頼耶識とは,この集起のことで,また蔵識ともいう。いろいろなものをとっておく蔵という意味で,われわれはなにか経験すると,それを種子として蓄える。それがまたいつか出てくる。

 つまり生きているということは,いろいろなものが集まって起こるという面と,さまざまな経験をしながら学びとって,その経験を用いて現実に行動するという面がある。だから阿頼耶識はだいたいわれわれの個人的生命力といったものです。

 この個人的生命力としての阿頼耶識から末那識というものが出てくる。心というものは,いま言ったようにほんとうは偶然の寄せ集めなのだけれども,その偶然の寄せ集めでムラムラと起こる心を,俺だ,俺だと思う。これが,末那識です。

 「我智我見我慢我愛とともなり」と唯識にありますが,この末那識が意識という了別の心を生みだす。意識というのは,ただ分別するわけなのだけれども,その分別も単なる分別ではなく,「俺の見方」から了別する。言換えれば「俺の物足りようの思い」で分別する。なんのことはない,心意識とは「物足りよう,物足りよう」の思いで,すべて世の中をみているということです。

 これを今日の西洋の心理学にあてばめれば,前五識は,つまり感覚知覚。ふつうわれわれが意識とよんでいるものは「第六意識」,第七末那識は自意識というべきだし,また第八阿頼耶識は無意識,または潜在意識のことですが,仏教の場合はこれらが渾然と一体になって「物足りようの思い」の出所として説明されている。

 ここまでは唯識の話ですが,真言宗の場合は,されらにもう一つ,第九菴末羅識というものを立てる。これは,そういうのが総て大自然的な力なのだという見方で,いわば「宇宙とぶっ続きの生命」ということです。

 こうしてわれわれはこれだけの能力を持っているわけですが,この能力がすべて成仏した場合に,前五識は成所作智,第六意識は妙観察智,第七末那識は平等性智,第八阿頼耶識は大円鏡智,第九菴末羅識は法界体性智となる。

 つまりわれわれの感覚知覚が成仏すれば,所作を成ずる智慧-一切衆生のために働く力としての智慧となる。意識というものは妙観察智-すべてのことに対してよく観じ察するという智慧になる。末那識は俺が俺がという思いが成仏するのだから,まったく平等に物事を見る智慧(平等性智)となる。阿頼耶識が成仏すれば,大きな鏡のように,映るがままという智慧(大円鏡智)にある。最後の菴末羅識が成仏すれば法界体性智-大自然的宇宙そのものの智慧ということです。

 そしてこの各々が仏さまにあるのだから,成所作智の仏さまを不空成就如来,妙観察智の仏さまを無量寿如来,平等性智の仏さまを宝生如来,大円鏡智の仏さまを阿閃(門の中:人3つ)如来,法界体性智の仏さまを大日如来という。

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2009年7月26日 (日)

唯識−抜き書き。

上田義文著『唯識思想入門』 (1964年)より。

●27頁〜31頁


次に弥勒や世親のpratibhāsaの用語例を若干あげて説明を加えることにしよう。



(1)無なるに顕現する喩は幻と夢等なりと。例えば幻,夢等は得知せられるものなれども[実には]有るに非る如く,法の顕現も実には無のみ。
(2)諸方は無であるのに得知せられること恰も幻等の如くであると知らるべきである。
(3)例えば幻にて造られたる象等は顕現せる(pratibhāsa)如くには実に無くして而も見ゆる(pratibhāsa)如く,虚妄分別も無なるに顕現せるものなり。
(4)上来虚妄分別は顕現するも[実には]有るに非ることを説き畢れり。

(略)

次に(3)と(4)とは,このartha(境)を見る虚妄分別が無であることと,それが得知せられることを述べている。虚妄分別はabhūtaparikalpaであってvikalpaとも呼ばれ,vijñāna(心所を伴ったもの)を意味する。この虚妄分別が無であるのに「顕現する」即ち「得知せられる」のである。識は元来得知するもの(the seer)である。それなのに識が得知せられるにも拘らず,その諸法は実在ではなく,それは識にほかならないからである。識が得知せられる(to be seen)というのは,識というものが得知せられるという意味ではなく,識が諸法として得知せられるという意味である。換言すれば,それは,得知せられている諸法が識にほかならないということである。ちょうど人間が幻の象や馬を見るが,それらは実在の象や馬ではなくて幻である,そのとき人間は幻によって現れた象や馬の形を見るのであって,幻そのものを見るのでない如くである。

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2009年7月25日 (土)

唯識−抜き書き。

上田義文著『唯識思想入門』 (1964年)より。

●24頁

こういう安慧のpariṇāmaの解釈は,pariṇāmaが識を意味するという世親の見解と一致する。識は刹那滅であり,刹那毎に生ずるが,必ずそれは前の刹那の識と全く同一であることはできない。刻々に変化してやまないのが識の流れである。現在の刹那の識は必ず前の刹那の識と異なっている。vijñānapariṇāma(変化の態における識)は識の具体的な姿なのである。従って単に「vijñānaにおいて我・法が仮説せられる」といっても「vijñānapariṇāmaにおいて我・法が仮説せられる」といっても,それらは結局同じことである。ālayavijñanaとかkliṣṭmanasとかviṣayasya vijñaptiとかはみなvijñānaのちがいであるが,それらが時間につれて異なるのがpariṇāmaである。識として存在するのは必ず現在一刹那であり,刹那をすぎれば滅する。ものを識るという作用をするのは現在刹那であるから,いろいろな識の相違は具体的には前後の識にまたがって成立する。かくして安慧の解釈ならばpariṇāmaが識をさしているということも理解し得られる。

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2009年7月24日 (金)

唯識−抜き書き。

上田義文著『唯識思想入門』 (1964年)より。

●15頁

護法は識を「能変」と解し,転変(pariṇāma)を識の最も基本の性質とした。そしてvijānāti(縁ずる)というはたらきも,この転変の上に初めて成立し得るものと考えた。換言すれば,識はvijānāti(識る)ためにはまず転変しなければならないとした。原始仏教以来伝承されていたvijānātīti vijñānam(識るが故に識である)という識の概念は,護法に至って根本的な変更を加えられたと言わなければならない。

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2008年4月 9日 (水)

〈来歴に依拠する〉







「来歴に依拠する」

兵藤一夫『唯識ということ―『唯識二十論』を読む』(pp14-15)



 また,日本の唯識思想の中心である興福寺に伝わる「手を打てば,鯉は餌と聞き,鳥は逃げ,女中は茶と聞く猿沢池」という句は,認識(知覚)がいかにその来歴に依拠しているかが示されています。「手をたたく」という同じ音を,鯉と鳥と女中はそれまでにそれぞれが経験してきたこと(来歴)に基づいて,餌を得ることや,危険や驚き,茶の催促というようにそれぞれ別なふうに認識することが実に分かりやすい事例で示されています。
 このように,唯識思想においては,客観的であると思われている知覚や認識がいかに認識主体に影響されているか,主観的であるかということに早くから気づいていたのです。






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2008年1月31日 (木)

〈主体〉








「主体」

(上田義文著『唯識思想入門』(pp44-45))


護法の唯識説では,上に述べたように識はすべて能変であるということは,識によって識られる万物が,識の転変によって現われてくるということを意味する。そしてアラヤ識はそういう識の最も根本的なものであるとと考えられる。ところが弥勒等の説では,識はすべて能縁である。能縁であるということは主体であることを意味する。ものを知覚し思惟し表象し,さらに感じ,欲するという働きを「縁ずる」と言い,この働きをするものが心・心所であり,「唯識」という場合の「識」はこういう心・心所の全体である。この「識」は直接には,「心」を意味しうつ,いつでもそれは心所を伴ったものと考えられている(識というとき,心所も併せ含むということは護法でも弥勒等でも変らない)。こういう識(主体)の中心がアラヤ識である。この識は身体と結合している点からは,阿陀那識と呼ばれる。主体の主体たる所以は,対象化されないという点にある。われわれの心・心所は反省の作用によって対象化されることができる。しかしそういう場合にも反省作用の主体は対象化されない。アラヤ識は主体の根本であって,いかなる場合にも対象化されないで残るところの主体そのものである。






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2005年11月20日 (日)

身体で感知する

ここ2年ほど,ひょんなことから韓氏意拳という武術のお稽古に通っている。

武術などやったこともなかったのだけれど,すっかりはまってしまって今に至る。

いったい何が面白いのだろう?…多分,それは韓氏意拳がダイレクトにものごとの本質にアプローチをしていて,誤摩化しが一切きかないからだろう。それは禅にも通じている。

この韓氏意拳を稽古するようになってから,禅や唯識で言われていることが,以前より理解できるようになった。理解というより,身体感覚的に「これか…」と思うというフェーズなのだけど。

お稽古するなかで,自分のアタマでは制御しきれないところで,常にスイッチがONになっている身体に染み付いたクセに気づかされ,「これを習気と言っているのか…」と納得…。

また,「因果同時って?因と果って当然異時なんじゃないの?何故同時?」と思っていたけれど,そう…確かに因果同時なのだ。「種子生現行」と「現行薫種子」は同時なのだ…。

ということを,理屈・理論ではなく,身体で感知することは,とてもつなく大きく重い。

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