2025年10月12日 (日)

「山河の親切にわが知なくは、一知半解あるべからず」〜内山興正著『正法眼蔵 坐禅箴を味わう』より。

内山興正著『正法眼蔵 坐禅箴を味わう』(176〜178頁)より。

 「山河の親切にわが知なくは、一知半解あるべからず」

 それで山河とわれと分かれようがないほどの親切は、これを能所なしと知るわが知がなければ一知半解もない。つまり事実われが坐禅して、山河とわれと一枚と覚め覚めてみなければわからないということ。

 普通われわれは、我(自心)と世界(万法)とは別々にあるものだと思っている。ところが坐禅という生命実物では自心と万法の二つはない。自心は万法を生命体験する処に生きているのだし、万法は自心に生命体験される処に在る。自心と万法はひとひっくるめで初めて生(なま)のいのちであり生命実物なのだ。これを「心法一如」とも「一心一切法・一切法一心」ともいう。

 それに対して西洋哲学ではすべてを主観と客観に分けてしまい、何の疑問ももたずにこの分かれた二つが絶対的にあると前提してしまっている。そして認識というのは、この主観と客観と関係し合う処に初めて成立するものと考えているのだが、それが初めから違うのだ。本当にあるのは生きているナマの実物だけだ。そのなかに主観と客観という両面がないとはいえない。だから分けても結構だ。しかし主観と客観と別個に存在し、その二つが関係し合うことによって認識がおこるというのは全く間違っている。西洋哲学的考え方というのは、その点野蛮だと思う。初めから大雑把に分けてしまうのだから。

 西洋医学部の場合でも頭と胴体とまず切ってしまい、頭は頭で研究し、胴体は胴体で研究し、後でくっ付き合わせれば人体のことはわかると考えているから全く危い。一且二つに分けてしまったらもう全体としての生命は通わないからだ。

いま仏教の場合、われと世界と二つにわかれてしまった後に一つだというのではない。二つに分かれる以前のいきいきしたナマの生命実物のなかに、生命体験するわれ(能)と生命体験される世界(所)の親切な二面があるというのです。そしてそういうことを知り得るのはまさにわれの側だから「わが知なくは一知半解あるべからず」だ。私は世界を生命体験しながら生き、世界は私に生命体験されながらあるけれど、そういう事実を直接的に知って生きているのはまさに自心の方だ。

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2025年4月14日 (月)

櫛谷宗則さん編集の『共に育つ』第20号が発行されました。

Img 内山興正老師のお弟子さんで老師の著作の編集もされている櫛谷宗則さんが2年に一度発行されている『共に育つ』の第20号が発行されました。

申し込みは,下記の住所におハガキで櫛谷宗則さんまで。
折り返し,冊子と振替用紙が届きますので,冊子代500円と送料を振り込んで下さい。

〒959-1835 新潟県五泉市今泉1331
櫛谷宗則 宛

 

共に育つ 第20号 〜目次〜

奥能登よろみ村に生まれて ……… 村田遼雲 2

第二の人生 ……… 木村美智子 10

水をゆく 雲をゆく ……… 角一法侖 21

生きるということ ……… 神谷湛然 29

お釈迦さまより頂戴した唯一絶対の宝物 ……… 遥山正徳 37

ハツエさんの遺言状(小説) ……… 田辺静幸 43

母居しことが母の恩 ……… 安藤一雄 58

永遠なるものから来る光 ……… 渡辺兼次郎 63

いろんなご縁にはぐくまれて ……… 戸次公正 70

聖書と祈りを通して、神様とお会いする ……… 嶋谷和子 77

ぼくの能登地震 ……… 村田雅哉 84

坐禅からよむ現成公案(二) ……… 櫛谷宗則 91

編集後記 ……… 100

 

◯編集後記◯

一時のドカ雪も消え、日は伸び大地もゆっくり動き始め、人間のあらゆる現実を呑み込んで、時はいつの間にか静かに音もなく過ぎていきます。

二年間のご無沙汰でしたが、皆様いかがお過ごしでしたでしたか。楽しみに読んで下さっている方、自分の人生を飾らず書いて下さった方、思いもよらない多くの皆様のご縁に恵まれ育まれ、いつの間にか「共に育つ」も第二十号となりました。四十年近い歩みです。本当に有難く、自分は何を一生懸命やってきたのだろうと、ただ時の流れを想うばかりです。

今号初めの三名の方は、三十代〜五十代の若い方です。若いときは若いときしか書けないものがあり、年老いてくるとその素直な力が眩しく、浄められるような気がします。分かっていても悟っても本当には片付かないとだけ身に沁みて、万事休息、抱かれるように部屋の片すみで坐っています。──天地(あめつち)の祈り陽となり風となり結跏趺坐なるいのち賜る。

どうぞどうぞ、お元気で!

(櫛谷宗則)

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2024年5月15日 (水)

心意識について(内山興正老師をひく)。

内山興正老師『正法眼蔵 弁道話を味わう』(p160-p163)より。


だいたいわれわれの心意識のあり方を,もっと細かくいうと,眼耳鼻舌身のいわゆる五感を前五識という。次に第六意識,第七末那識,第八阿頼耶識,第九菴末羅識。

 意識とはいろいろ思うこと。末那識とは,阿頼耶識から出てくるもので,俺が,俺がと思う自意識。阿頼耶識とは個人的生命力と言ったほうが適切でしょう。さきにも述べた心意識という語にあてはめて言うと阿頼耶識が「心(しん)」で,末那識が「意」で,第六意識は「識」です。

 前に心意識の話が出てところで,心とは質多(しつた)-(集起の義)で,いろいろ条件がくみあわされてムラムラと起きてくる思いだと申し上げましたが,それは何かというと,たとえば親からの遺伝もあるでしょう。生まれた環境もある。二十世紀の,日本で生まれたという条件もある。また育っていく上での教育,習慣,経験など,さまざまな要素も重なる。さらにはその日その日の天候の加減もあり,身体の調子にも左右される。それらの条件が集まってわれわれの個人的生命力があるわけです。

 阿頼耶識とは,この集起のことで,また蔵識ともいう。いろいろなものをとっておく蔵という意味で,われわれはなにか経験すると,それを種子として蓄える。それがまたいつか出てくる。

 つまり生きているということは,いろいろなものが集まって起こるという面と,さまざまな経験をしながら学びとって,その経験を用いて現実に行動するという面がある。だから阿頼耶識はだいたいわれわれの個人的生命力といったものです。

 この個人的生命力としての阿頼耶識から末那識というものが出てくる。心というものは,いま言ったようにほんとうは偶然の寄せ集めなのだけれども,その偶然の寄せ集めでムラムラと起こる心を,俺だ,俺だと思う。これが,末那識です。

 「我智我見我慢我愛とともなり」と唯識にありますが,この末那識が意識という了別の心を生みだす。意識というのは,ただ分別するわけなのだけれども,その分別も単なる分別ではなく,「俺の見方」から了別する。言換えれば「俺の物足りようの思い」で分別する。なんのことはない,心意識とは「物足りよう,物足りよう」の思いで,すべて世の中をみているということです。

 これを今日の西洋の心理学にあてばめれば,前五識は,つまり感覚知覚。ふつうわれわれが意識とよんでいるものは「第六意識」,第七末那識は自意識というべきだし,また第八阿頼耶識は無意識,または潜在意識のことですが,仏教の場合はこれらが渾然と一体になって「物足りようの思い」の出所として説明されている。

 ここまでは唯識の話ですが,真言宗の場合は,されらにもう一つ,第九菴末羅識というものを立てる。これは,そういうのが総て大自然的な力なのだという見方で,いわば「宇宙とぶっ続きの生命」ということです。

 こうしてわれわれはこれだけの能力を持っているわけですが,この能力がすべて成仏した場合に,前五識は成所作智,第六意識は妙観察智,第七末那識は平等性智,第八阿頼耶識は大円鏡智,第九菴末羅識は法界体性智となる。

 つまりわれわれの感覚知覚が成仏すれば,所作を成ずる智慧-一切衆生のために働く力としての智慧となる。意識というものは妙観察智-すべてのことに対してよく観じ察するという智慧になる。末那識は俺が俺がという思いが成仏するのだから,まったく平等に物事を見る智慧(平等性智)となる。阿頼耶識が成仏すれば,大きな鏡のように,映るがままという智慧(大円鏡智)にある。最後の菴末羅識が成仏すれば法界体性智-大自然的宇宙そのものの智慧ということです。

 そしてこの各々が仏さまにあるのだから,成所作智の仏さまを不空成就如来,妙観察智の仏さまを無量寿如来,平等性智の仏さまを宝生如来,大円鏡智の仏さまを阿閃(門の中:人3つ)如来,法界体性智の仏さまを大日如来という。

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2024年4月24日 (水)

「行」の言葉ー「してみれば四聖諦にしても、『苦のもとは欲望である』、『それゆえ欲望を滅すれば、寂滅の楽が得られる』などといういいかたをすればアヤマリです。」〜内山興正。

してみれば四聖諦にしても,「苦のもとは欲望である」,「それゆえ欲望を滅すれば,寂滅の楽が得られる」などといういいかたをすればアヤマリです。
 「寂滅の楽を得ようとする,そのことが欲望ではないか」と,かって発したわたしの疑問は,けっしてアヤマッテはいませんでした。寂滅の楽をえんとする欲望がそのまま,かえって修行者をして,抜くべからざるディレンマに追いこむだけですから。
−真実の佛法のおしえは,そんなことではありません。
 「欲から苦が生ずる私がある。」
−まず苦,集の二諦は,かくおしえます。これは流転輪廻する自分のすがらのことをいうのです。
 しかし同時に「これとまったくちがった自己」があります。それはつぎの滅,道の二諦がおしえる。
 「道をあゆむなかには,寂滅している自己がある。」
ということです。
 四聖諦はただこの二つの自己の道をならべてみせるだけです。もしこれを聖書のことばを借りていえば,
 「肉によりて生まるるものは肉なり。霊によって生まるるものは霊なり。」(ヨハネ三の六)
あるいは
 「肉にしたがうものは,肉のことをおもい,霊にしたがうものは,霊のことをおもう。肉の念(おもい)は死なり。霊の念は生命(いのち)なり。平安なり。」(ロマ八の五)
ということです。まことにかかる言葉があればこそ,聖書のなかに,正しき宗教があることを,わたしは信じます。それに反し,もしたとえ佛教者と自称するひとたちといえども,「それゆえ寂滅の楽を得んがため」にと,この二つをつなぎあわせるとき,とたんに功利的な新興宗教とちっともちがわぬものとなってしまうことを,あらためて確認いたします。
 真実の佛法は,「本来寂滅の自己なるがゆえに,寂滅の道をあゆむ」のであり,あるいは「寂滅の道をあゆむために,寂滅の道をあゆむ」だけです。つまり真実の自己とは,「思い以上の自己」なるがゆえに,「思い以上の道」をあゆむだけです。そしてこの「思い以上」というのが,坐禅なのです。
 だから坐禅してぼつぼつ思いをしずめようとしたとて,じつは坐禅のなかには,しずめるべき何ものもありません。坐禅はただ(祗管)坐禅するだけです。坐禅は,坐禅の独悟現成でのみあります。

*内山興正老師語録はこちら…

(『自己-宗派でない宗教』p246-249)

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2024年2月28日 (水)

「移ろうと」〜内山興正。

移(うつ)ろうと 思うところも 明日はなき

今日はしきりに 花の散り布(し)く

                 興 正(内山興正老師)

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2024年2月 5日 (月)

「異角異見〜新しい生命時代のために」〜内山興正。

内山興正老師「異角異見〜新しい生命時代のために」『総合教育技術』(小学館)より。
▼1984年4月号
生命の底光りする一つの人間像
「よいよい生活」への願望は、それ自身一つの生命力なのですから、けっして否定すべきではありませんが、まさにそれがただ「物質的なものだけへの渇望であることが問題なのです。
▼ 1984年5月号
相手は生命である
われわれがいかに力をつくし、教育したつもりになっても、本当に成長するのは、教師の思議による技術ではなく、子どもの生命力そのものなのだということは、絶対見失ってはならぬことであり、同時に教師たるもの、いよいよこの生命の前に怖れ畏むところがなければならぬのだと思うのです。
▼1984年6月号
(-α)×(-1)=(+α)
大体いまの数学の先生方は(数学にかぎらず他の科目の先生方も)、大概ご自分が学生時代からその科目が好きで、その科目がよくでき、それでその科目の先生になった方多いのでないでしょうか。そういう先生方は、その科目を苦手とする生徒の「分からないところ」が「お分かりにならない」のです。
▼1984年7月号
選別と教育
本当に若くして受験に失敗し、絶望を経験しつつ、そこに鍛えられた人間こそが、却って将来逞しく大きく立ち上がり、働く人間になるのかもしれないのです。−−落ちこぼれのこどもに対し、そのまま「おれは駄目なんだ」と一生にわたって落ちこぼれさせてしまうようでは、教師自身こそが失格だとせねばならぬでしょう。
▼1984年8月号
教育する心
いま大切なことは、小人や擬似(えせ)オトナを教育して「ほんとうの大人」とする、「人類の中身の向上」です。それを推進できるのは、ただ、人間の「ほんとうの教育」以外にはないのではないでしょうか。
▼1984年9月号
わが生命分身と出逢う
教育とは、その子どものこれからの一生において、少しでもその生きる内容を豊かにしてやりたいといいう「親心からの教育」でなければいけないと思う。
▼1984年10月号
なんのための勉強か?
ばらが大人に生長すればバラの花が咲きます。教育もそれぞれの人生において、それぞれの花を咲かせるということに価値をおくべきだ。
▼1984年11月号
大切なことは勝つことか、仲よくか
競争社会に勝ちぬくだけを生活原理とする社会、そしてそのための教育をしているかぎり、人類の行き先は開かれないように思う。
▼1984年12月号
大人の心
教育の根本目標は、現代という「小人野蛮時代」を「ほんとうの大人時代」にまで成長させていくことだと思う。
▼1985年1月号
「やる気」の問題−−生命の深さ
今、「やる気」がない、無気力な子供たちに本当のやる気を起こさせるにはどうしたらよいだろうか。
▼1985年2月号
自己の生命力に目を開く
学校で宗教を教えてはならぬということにより、この人間として最も大切な生命さえも見失ってしまったところに、今日の学校教育の根本欠陥があるのではないだろうか。
▼1985年3月号
もう少し心ゆたかな教育を
「心ゆたかに」そして「ゆたかな人生」を送ることこそが、人間の幸福ではないだろうか−−そのために学校教育は何をすべきか。

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2024年1月 6日 (土)

「生きてるだけで丸儲け」〜明石家さんま。

「生きてるだけで丸儲け」

 

明石家さんまさんのこの言葉が、

内山興正老師に繋がっているとは、知らなかった…。

 

NHK Eテレ『スイッチインタビュー』

「明石家さんま×森保一」EP1(初回放送日: 2024年1月5日、再放送予定: 1月10日(水)午前0:25)

https://www.nhk.jp/p/switch-int/ts/K7Y4X59JG7/episode/te/DJ8R4183W7/

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2023年8月12日 (土)

「われわれが生命という場合、抽象的な生命概念であってはならない。具体的に「いまここの働き」を働くのでなければならない。」〜内山興正。

「私の働き場処に生命がゆきわたるー知事の心づかい」『【改訂版】いのちの働きー知事清規を味わう』内山興正著(大法輪閣)

(33-36頁)

前に仏法とは、結局「生命が生命として働く」ことだといったけど、いま叢林で知事として大切なのは、一つの配役のなかで本当に生命のある仕事をすることです。なぜならばその生命というものを突きつめれば、いまここのあり方を抜きにしては何もないからです。だとえば西洋の哲学者が「生命」ということを論ずるのなら、これはもう抽象論なんだ。ヘーゲルは「存在と思惟の一致」という。事実、ヘーゲルの哲学はそこから始まるわけだが、しかしそれは、「存在と思惟の一致」ということを考えているだけなのです。もし本当に存在と思惟が一致しているのなら、例えば「火」ということを考えたら、とたんに頭がやけどしなくてはならない。ところがそれを考えてもやけどしないところをみると、結局は一致していないわけだ。

 

今仏法としては、そういう抽象概念ではない。「生命」という限りは口ではいえない。本当の生命とは、いま俺の生きている事実をいっているので、決して「生命」という言葉ですませてよいものではない。生命とはまったく現ナマとして生きていることで、いくら冷蔵庫に入れておいても保存はきかない。だから一瞬先に起こったことは、ここではもう通用しない。生命の実物は保存のきかない現ナマとして、いつでもいまここのあり方として生きている。

 

(中略)

 

つまりわれわれが生命という場合、抽象的な生命概念であってはならない。具体的に「いまここの働き」を働くのでなければならない。それがいまわれわれの叢林にあっては配役です。典座は典座という配役において、園頭は園頭という配役において、具体的な自己の生命を働かなくてはならない。「オレはオレの生命を生きるんだ」といっても、何もしないのなら、それはちっとも生命を生きていることにならない。大切なのは、いつでもこの具体的働きなんだ。

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2021年6月28日 (月)

姿勢(2)。

20210628 4月に買ったテルミンpremium。
わざわざ未使用品を中古で買って、せっせと練習していたのだが、イヤホンのコードをひっかけて取り落としそうになり…ピッチアンテナを折ってしまう(泣)。

その上、実は本格的なテルミンも購入したのだけれど、初期不良につき、販売元に送り返し…(泣)。

不遇は、テルミンばかりでなく…先日は、かったばかりの折り畳み傘を取り落として、パーツが割れて壊れるし…(泣)。

なんてついてないんだ〜_| ̄|○

と、がっかくりしながら歩いていたら、

「感謝だな」

という思いがうかんだ。

ちょっと、びっくりした。

けれど、それがおもしろいことに、思いがうかんだとはいったが、なんてついてないんだ、はあ〜と頭が下をむいた感じと同時に、これは「感謝だな」と思えた、と言ったほうが正確だ。

…からだが生む言葉。

ということに気づいたからといって、あいかわらず、自分をとりまく嫌な状況はやっぱり嫌。すっかりトラウマ状態のものもあるし…といいつつ、嫌なことを実体化して握りしめているのもわかるので、すこし握ったてのひらを開いてみると、実態の希薄な不安・不満ばかりで気分悪い。

そんななか、1年前に読んだ、教育者で浄土真宗・東光寺の住職でもあった東井義雄先生が紹介され序文も書かれていた鈴木章子著『癌告知のあとでー私の如是我聞』(探究社)の話が思い起こされた。

この話は、東井先生の『仏の声を聞く』(探究社)の中で語られていて、それを思い出したのだが、東井先生は、鈴木章子さんの次の詩を紹介していた。

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おやすみ
 
「お父さん ありがとう またあしたあえるといいね」と手を振る
テレビをみている顔をこちらに向けて主人が
「お母さん ありがとう またあしたあえるといいね」
と手をふってくれる
今日一日のしあわせが 胸いっぱいに あふれてくる
そして 朝は
「お父さん あえたね」
「お母さん あえたね」と
恋人同志のような暮らしをしています
振りかえってみると
この四十六年間 こんなあいさつを
一度だって したことがあったでしょうか
みんな
がんをいただいて気づかされたことばかりです

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こういう感謝は、自分にはないな…。

それから、ふっと、ぶつぶつ不満たらたらな周りを見渡してみると、例えば、嫌で嫌で、くそ腹たつことだって、そのことの苦情を受けて、いろんなことを考えて対応してくれる人たがいるじゃないか…ということが見えて来る。そういう人たちは、それが仕事だから当たり前、じゃあない。やって当たり前かどうかじゃなくて、仕事としてやっている、そこに生身の汗かくその人がいるじゃないか…という姿に、うっすら気づく。

出会うところわが生命(内山興正老師)

は、自分の姿勢のなかに聴こえてくるのだろうな。

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2021年5月18日 (火)

姿勢(1)。

20210518-124303見様見真似で、せっせとテルミンを練習している。

テルミンは、垂直方向と水平方向に伸びたアンテナの周囲に形成された微弱な電磁場のなかで、手をアンテナに近づけたり遠ざけたりすることで音の高さや大きさを制御する古典的な電子楽器。

ピアノやギターなど、ここをこうしたらこの音がこう出る!という基準が楽器に存在しないのが魅力。テルミンを演奏は、視覚による思考、つまりものを固定的に捉えて考える(という自分の思考の癖)ということとは、違うモードを要求されることに気づいて、すっかりハマってしまって、今・ここ。

それで、姿勢についても、気づきあり。 

姿勢とは、単に、背骨や筋肉やが、その人の置かれた状況・環境とはかかわりなくある(正す)ものではなく、状況・環境とのかかわりが、よく繋がっていくような身心の環境との主体的(能動的)な関わりのありようを姿勢というのだな…。

という感じ。

内山老師は、『宗教としての道元禅―普勧坐禅儀意解 』(1977年)[復刻版:『普勧坐禅儀を読む―宗教としての道元禅』(2005年)]で、

思量箇不思量底:そうして思いの手放しである坐禅の姿勢(不思量底)を、ただ骨組と筋肉をもって生き生きとネラッテいる(思量する)ことが、正しい坐禅というものである。

と言われた。

そうだ、そうだ。

筋肉と骨格で、正しい坐禅の形をねらっていくんじゃないんだ。

身心の環境との主体的(能動的)な関わりを事実やっていくということが、「生き生きとネラッテ」いくということだ。坐っている周囲・環境を切り離したはなしではない。

師匠の宮浦老師は、「ぶっつづき」ということを言われた。坐禅をして何がどうなるのでもないが、「"ぶっつづき"ということが,だんだんとはっきりしてくるんだよ」と言われた。

正しい坐禅の形をねっていくんじゃない、「ぶっつづき」ということは、知っていたし分かっていたつもり…でも、それは頭でね、ということに、けっこうはっきり気づく。

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