2013年2月 2日 (土)

尊厳。

「生」も尊厳。
「死」も尊厳。

生まれたから尊厳が生じるわけではない。
死ぬから尊厳がなくなるわけではない。

皆に祝福されて生まれたから尊厳が与えられるわけではない。
傍目に悲惨に死んでいったから尊厳が奪われたわけではない。

そもそも「生死」という営み自体が尊厳なのだ。

だから,

尊厳ある「生」に尊厳をもって出合う。
尊厳ある「死」に尊厳をもって出合う。

という出合い方を実際にやろう。

〜伊那にて…

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2012年11月17日 (土)

縁とか関係性とか…。

枇杷の葉温灸で、たまには…の親孝行。

温灸のやり方は、おばあさん直伝。

枇杷の葉は、庭で取る。
この枇杷の木は、あるお祝いの会を催した際、そこで出ていたデザートの枇杷を食べた知人が、種を取っておいて苗にまで育ててプレゼントしてくれたもの。
もう屋根の高さほど大きくなっている。

こう言う民間療法が、現代科学的な見地から効果があるのか否かは知らないけれど…

温灸をする背景にある様々な縁や関係性のなかで、「温灸で楽になった」と言う効果も得られているのではないのかな…と思ったりして(^^)。
Zen_shoku20121112

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2012年11月 3日 (土)

屁一発貸し借りできないー澤木興道老師。

〈屁一発貸し借りできないー澤木興道老師〉

わたしのすることは、わたしのすること。
あなたのすることは、あなたのすること。

わたしはわたしのすることをする。
あなたはあなたのすることをする。

わたしのすることを忘れて、あなたのすることをしようとする必要はない。
あなたのすることを忘れて,わたしのことをしようとする必要はない。

わたしはわたしの今をする。
わたしはわたしの今のちょっと先やもっと先にすることを思い煩う必要はない。

あなたはあなたの今をする。
あなたはあなたの今のちょと先やもっと先にすることを思い煩う必要はない。

では、わたしの今はすること、あなたの今することは何か?

目の前のを見よう。

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2011年2月25日 (金)

而今。

一夜賢者の偈

過ぎ去れることを追うなかれ。
未だ来たらざることをおもうことなかれ。
過去,それはすでに捨てられたり。
未来,それはいまだ到らざるなり。
されば,ただ現在するところのものを,そのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく,動ずることなく,それを見極め,それを実践すべし。
ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。
誰が明日死のあることを知らんや。
まことにかの死の大軍と,遇わずと言うのはあることなし。
よくかくのごとく見極めたるものは,心をこめ,昼夜怠ることなく実践せん。
かくのごときを一夜賢者といい,また,心しずまれる者とはいうなり。

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2011年2月13日 (日)

お葬式にて…。

「死に時になったら死ぬ」ってあるんじゃないだろうか…と,お葬式で最後のお別れをしながら,ふと思った。

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「黙って死ね」

 内山興正老師『生命の働き―知事清規を味わう』123-125頁より。

 …人生において弁解や理屈の通るときは大いに通したらいいんだけど,ときとしてはそれが通らないことだってある。そういう場面に出逢ったら黙って死ぬより仕方ないんだ。
 私たちの仲間に禅徹道機上座という人がいた。なかなかしっかりした人だったけれど,兵隊にとられて戦死した。この人が戦争にいって最期に大連から長い手紙をよこした。その中に「オレみたいな有望な青年たちがこの戦争で敵の弾丸一発で死ぬ。そんな馬鹿なことがあっていいのだろうか,そう考えてはみるけれど,しかしそのときは黙って死ぬより他ない。」と書いてきた。だからなるべく鉄砲玉のこないところで生きようとすることが大切だけど,しかし鉄砲玉がどんどんくるようなところへ出されることだってある。人間にはどんなことだってある。わたしなんかはこれで還暦まで生きのびてきたけれど,それはありがたいと言わなければならない。しかしやはりそうしたわたしでも,黙って死ぬということはいつも覚悟しなければならなかったことは何度もある。
 私が西郷南洲翁の伝を読んだのは東京の至誠寮にいたときのことでしたが,その本によると,西南戦役を実際に引き起こしたのはだいたい桐野利秋なのだそうです。それで最期に城山で切腹するときに,西郷南洲の弟が「桐野利秋のために俺たちは死ななければならないんだ。」と南洲に愚痴を言った。そしたら西郷南洲は「黙って死ね。」と言ったと書いてあった。ちょうどこれを読んだころ,いろいろ複雑な事件が起こっていて,私自身もそれこそ黙って死ななければならない破目に追い込まれていたので,この言葉に特に感銘した。それでその後,防府(山口県)の護国寺で摂心があり,そこに行っていたとき,わたしは沢木老子からさんざんにひどく怒られたことがあったが,わたしは全く死んだつもりで一切弁解せず,全く黙っていることができた。
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2010年5月 9日 (日)

「回光返照」。

澤木興道老師『禅談』「回光返照」より。

 坐禅が本当に円熟して来ると,一堂に何十人坐っていても,十分か二十分は,実にシーンとして,それだけの人間が居るとは思われぬまでに,それこそ物凄い程静かな澄んだ雰囲気が出来る。その雰囲気が出来ることが大事なのです。

 僧堂などでも,嫌な奴をやらすものだから,首をふったり,モソモソしよる。能う居眠る。禅宗坊主になった以上は坐禅になり切らねばならぬ。もっと坐禅が好きにならねばならぬ。それが,バラバラに徳利を並べた様な坐禅では何にもならぬ。

 在家の坐禅では居眠りは能うやる。居眠りをやめたと思うたら五分に一回位腕時計を見よる。ソロソロ厭きて来ると又船を漕ぎ出す,頬杖をつく,そしてこんな足の痛いことはどもならんと横着なことを云う。これでは一番大切な雰囲気などは容易に出来ない。

 この雰囲気が出来れば,何十人一所に居っても,全体が透明になる。一歩進めば大円鏡智と云うて,広く大きな鏡の如く,時間空間が透明になる。それに自己を見出せば,これはいつもの自己と又別の自己であります。石頭大師が『回光返照便ち還り来たる。霊根に廓達すれば向背にあらず』と云うて居られるが,吾々が回光返照すると云うのは,天地と同根,万物と一体の自己を体験するのです。

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2010年4月11日 (日)

願に生きる。

澤木興道老師『禅談』「願の話」より。

人間は何度も何度もこの世の中に生まれて来ることは出来ない。人間がこの世の中に生まれて来るのはただ一度です。たまたま人間として生まれて来た,この大切な一生を,何の願も立てずに空しく過ごしてしまうということは,まことに勿体ないことである。高い願を立て,その願を成就しようと努力してゆく,そこにこの世に生きてゆくはげみがあるのです。またその人の願の高い低いによって,その人の値打ちも自然にきまるわけであります。

願に生きる。そこに生き甲斐があるのです。願が成就ということのために,自分の身心を投げ入れる。この場合その願が,人類永遠の福祉のためのものであれば,願が成就する。せぬはすでに問題でなく,その願に生きて行くところに,永遠の生命を感得することが出来るのです。

願のない人のすることは,人生に何の方針もなければ,家庭にも全く方針がない。国にしても国策なしに,やたら税金を取られたら人民はたまったものではない。国家も国家の願がなければならないし,家庭には家庭の願がなければならぬ。

(中略)

国に国策があるように,家庭には家庭策が必要である。つまり,願をもたない家庭は何するための家庭が解らない。一体われわれは何の願があって飯を食うてこうしているのか,もう一つ根本に行けば,何のために生まれたかという人間最終の使命を見出さなければならぬ。

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2010年2月11日 (木)

「まず足許から工夫を要する。工夫するところ何処でも道だ」。

澤木興道著『禅談』より。(H8年復刊第18刷:pp186-189)。

 禅宗坊主に『脚下を照顧せよ』という言葉がある。足許を照らせということである。足許を顧みよということである。更にいえば貴様はどうかということである。そうすると此の『脚下を照顧せよ』ということは,自己の生活に何時も立戻れということである。
 それには大きい鏡がなければならぬ。此の鏡に始終自分を写して見ることである。地獄でいうたら浄玻璃の鏡である。
 地獄,極楽の絵を見ると,よく亡者を引掴えて鏡を見せているのがある。鏡には荷物を持って逃げようとしているところが映っている。此の鏡が則ち吾々の業鏡で,各々(めいめい)自分で持っている訳です。そして各々の境涯に相応した業を映している。専門の言葉でいえば是が第八阿頼耶識です。
 その鏡の中に,何も映らない世界,そういう世界は一体どこにあるのか。この何にも映らない世界は悟りの世界であり,坐禅の世界である。出る息,引く息に,出る息は出る息限り,引く息は引く息限りに,念々不断に回光返照して,本当の自分を見つめて行く世界である。ここのところを『普勧坐禅儀』には,『所以に須く言を尋ね語を遂ふの解行を休すべし。須く回光返照の退歩を学すべし。』
と仰せられてある。

(中略)

 この回光返照の退歩というのは,正しく坐禅をすることで,字の訳や,典拠振りまわす様なことはせんでも,宏智禅師もいわれている様に『退歩は己れにつく』であるから,自己に親しむ工夫をしなければならぬということです。したがって私たちの一番努力せなければならぬ事は,この回光返照の退歩を学するということです。左之右之,あらゆる時,あらゆる場合にこの工夫を要するのである。

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2010年2月 2日 (火)

遇一行修一行。

「(どんな状況でも)ぐずらずに受けて立ち、それを勤めあげることに情熱をもやす」ー内山興正老師。

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2010年1月27日 (水)

覚触のめあて。

「ただ前をみる」という方向性が引き出されてくる感覚。

※覚触について。
内山興正老師『生命の実物』より。

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 さてつぎに,このような坐禅をしている場合の内部体験の実際を,できるだけこまかに分析記述してみましょう。まず一本のZZ′の線をひき,これを「まさしく坐禅の姿勢を守っていること」といたします。(第9図参照)われわれが坐禅する場合には「坐禅するということ,ZZ′」がいまのわれわれの生命の実物であるべきですから,このZZ′の線をぜひとも守らなければなりません。ところがさきにいいましたように,われわれ人間が坐るということは,石がそこに置かれてあるのとはちがい,固定しているわけではありませんから,ともするとこの線から外れがちです。あるいは思いが浮かんだり,あるいは居眠りがでてきたりしてしまいます。

 たとえばZ-Z′の線から外れて,aという思いが浮かぶとしましょう。もしこのaという思いを土台としてa′,a″などと思いをつづければ,もはや考え事になってしまいます。自分の仕事のことが思い浮かんで,つぎにはその仕事の予定だとか,やりくりだとかの思いをつづければ,これは明らかに仕事についての考え事をしているのでしかありません。そこで思いを手放しにして,骨組と筋肉によって,坐禅の姿ZZ′を覚触(覚めて実物)し,生命の実物にかえります。この覚触を矢印→で表わします。

 ところで暫くするとこんどはウトウト眠くなります。これをbとします。このbもそのままb′,b″とつづけるとすれば,本当の居眠りになってしまいます。居眠りについてb,b′,b″と順に符号をつけるのはおかしく思われるかもしれませんが,坐禅の実際としては,実際にそうなのです。というのは,坐禅しながら眠くなっている場合,そこに何かふっと頭に思いが浮かんだときは,もはや居眠りしているのです。何か思いが浮かぶのは夢みているのだからです。それで坐禅の実際としては思いを追うのと,居眠りしているのとは事実上別なものではありません。つまりはっきり目がさめていながら,そこに思い浮かび,さらにそれを追うのはまさしく「考え事をしている」ことなのですが,もし眠くなり,そこにふっと思いが浮かんで,さらにそれを追うのは,それはもやは居眠りしながら夢を追っていることなのです。時には「自分は今眠いけれど,その眠さに耐えて,しっかり坐禅しているぞ」と思いながら(つまり夢をみながら)ぐらぐら居眠りを漕いでいることだってあります(このことは坐禅体験の上から事実そうなのであり,私は催眠術のことについて何もしりませんが,もしかすると,こういう仮眠状態を,催眠術は応用するのかもしれません。)だから坐禅する人は,眠いときには,ことに思いを追わぬよう,いきいきと骨組と筋肉によって坐禅に力をいれ,はっきり覚めて,生命の実物に立ち帰らなければなりません。この覚触も又矢印←であらわしましょう。

 実際にわれわれが坐禅するときには,こうしたa→,あるいは←bの連続なのです。あるときには,この覚触さえも忘れてしまって,c,c′,c″と「今坐禅している」という生命の実物からすっかり宙に浮き,考え事を追ってしまうこともあるかもしれません。そしてうっかりすると,その思いを追うことのなかに,すっかり出来上がってしまった「まざまざとある姿c'''」(たとえば彼女)と対話し,交際するようになってしまうこともあります。しかしこのときでも,坐禅人がもし覚触すれば(思い手放しに,骨格と筋肉で坐禅の姿勢を実物すれば)このような「まざまざとある姿c'''」は,ふっと消えてなくなってしまい,坐禅している実物(ZZ′)に立ち帰ることができます。----ここの所が実に不思議です。「まざまざとあるc'''」が実体あるものではなく,たんなる思いの虚出没(実体なき出没)でしかないことが明らかに知らされるからです。とにかくわれわれ坐禅しているとき,気づいたら,cの段階でも,c′の段階でも,c″の段階でも,c'''の段階でも,何れの段階でもいいから,できるだけ早く坐禅を覚触し,ZZ′に帰るべきです。そしてこのいつでも覚めて,とにかくZZ′に帰る→覚触の姿勢こそが坐禅というものなのです。

 そうです。はじめに私は「われわれ坐禅する場合『坐禅するということZZ′』がいまのわれわれの生命の実物であるべきだから,このZZ′の線を,ぜひとも守らなければならない」といいました。しかし今私はこれを言いかえなければならないでしょう。ZZ′は「坐禅の姿勢」の実物なのです。しかしわれわれの生命の実物は,ただそれだけでないからです。というのは,ZZ′だけであったら,たとえば石が置いてあるのと,ちっとも違わず,生命ではないでしょう。むしろ生命は,いまこのように坐禅の姿勢の実物ZZ′の線をねらっていながら,じつは決してZZ′に固定することはできず,却って,いろいろと宙に浮き,外れがちであるということ,しかし尚ZZ′を覚触し,それに立ち戻る力(→)こそがわれわれの坐禅している生命の実物なのです。そして覚触するときには,そこに思い浮かぶ所のすべては,いつでも忽ちにふっと消えてしまう実体なき虚出没でしかないとしらされることが,坐禅というものです。
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